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駄文-2003年02月の変更点

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!!!2003年2月の駄文

!2003年2月25日……「ブーム」 

ニュースとかバラエティーとか情報番組でやたらと何でも「ブーム」だというのはなんなんだろう?
少なくとも大ブームというからには俺が知っているぐらいにブームになって欲しいものだ。
人が知らんうちに勝手にブームを作るな!バカメディア。

でもちょっとくやしいのが「なんでだろう」。
知らないんだよ〜〜〜「なんでだろう」。「なんでだろう」って歌(?)があるみたいだねえ。
友達の頭の中で何度もリピートしているらしいけど、俺はじぇんじぇん知らない。

なんでだろう。  ← 実物を聴いてみたいです。はい。(o_ _)o

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!2003年2月19日……よく見たら 

2月の6日から書いてなかったんだねえ。「日記」なのに。
まあ、こうなることは人生経験上十分ありえることだとは思っていたが……。

最近こんなことばっかり書いているが、本当にシャレにならないほど忙しい。
本当によく殉職者が出ないものだ。
出るとしたら真っ先に体力のない私が逝ってしまうだろうが。
いつまでも日記が更新されていなかったら生存確認のメールでも出してみてください。

時に、今まで会社の中からでも自分の私物メールを読むことができていたのだが、最近社内のファイアーウォールが設定変更されたらしく、私物メールをPOP3経由で取ることができなくなった。
ムキーッ!!
俺の社内での唯一の安らぎがぁ〜〜〜〜〜〜!!

いいもん、いいもん。死んで屍拾う者無しだから。(謎)

ちなみに昨晩は徹夜でした。はい。

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!2003年2月6日……舞台 

会社の休み時間中にいつも巡回している掲示板を何気なく巡回していると、友人が手伝いをしている劇団のHPがあった。
自分が演劇(の真似事のレベルまでしか行けなかったが)をやっていたのは大学3年の頃であり、多分20の頃。今を去ること7年前で、「もう7年になるのか」という感じがふと沸いてしまった。
演劇自体は高校2年からやっていたが、紆余曲折しながら結局21の夏を最後に舞台に上がることはなかった。

20の時に某社会人劇団に入って稽古とかやってたんだよなー、なんて。
その劇団は非常に演劇に対してシビアで、それこそその頃は稽古に行くのがしんどくて胃が痛くなるぐらいだった。
(今思えば結構かわいがってもらっていたのだが、ワガゲのいたりと言うヤツかもしれない。)
特に飲み会がイヤで、その頃から全然酒の飲めない私でもまるっきし体育会的な飲みを強要され、さらに元々気が利かない私は飲み会のたびに「もーいや」とおもったものである。

しかしその時に習った「演劇」というものはいろんな事に役に立っているかもしれない。

結局のところ人はそれぞれの役をそれぞれの舞台で演じているに過ぎないのだ。
そんなことを言うといかにも演劇的な良くある処世論や斜に構えたキザに聞こえるかもしれないが、「人の思いは他人には絶対そのまま伝わることはないという現実」を突きつけられたその経験は自分の物の見方にかなりのインパクトを与えている。
自分の事ですら実は自分が思っているようにはわかっていないのだ。
自分が立っているその場所ですら自分が考えているような固定的な場ではなく、周りのものや自分自身の働きによってグラグラと変化していく不安定な舞台なのだ。
「人の思いは他人にはそのまま伝わることはない」という言葉は一見絶望的に聞こえるが、じつはそれこそが世界を動かす魔法の鍵だと気づく人が何人いるだろうか?
自分と世界はそれぞれの相互関係と幻想で成り立っており、固定的な「絶対」や保証なんてどこにもないのだ。良いにつけ悪いにつけ。

例えば誰かに何か言われて激しく落ち込んでいる自分がいる。しかしそれを遠目で一歩上から眺めている自分がいる。
自分は自分の目とか耳とか感覚という不安定で不確定で流動的なものを頼りに、言葉とか動作とか思いだとかとても不安定な電波を発しながらその不安定の上に作られた今を渡っているのだ。
いつもいかなる時も自分は自分というものを演じているのであり、「本当の自分」というものを考えるのはナンセンスなのだ。
たとえ「本当の自分」というものを見つけたとしてもそれをどうやって他の人に伝えるのか伝えようとすればするほどその「本当の自分」は押さえつけられ、その形を変えていくのだ。
たとえ自分がそれを伝え、相手が「わかった」といってもお互いの「それ」が同じであることを誰が保証してくれるのか?

パンセの一節ではないが、結局のところ「そう思い、それに賭けてみる」しかないのだ。
その人間という不安定な存在を前提としていろんなことを考えて組み立てていかないとならないのだ。
それは絶望的な賭けではなく、不安定さを信じることによる前進なのだ。

元々このホームページだって、実在する「坂本 翼」という一個人の「舞台裏の本音」みたいなものを書けたらなと思っていたのだが、電子の世界で「Tsubasa」と名乗りはじめることによりその瞬間から「Tsubasa」はどんどん一人で歩き始めるのだ。
むふふふふ。そんなもんです。

と、世の中や自分や周りの人を何だか不安にさせてしまうような発言をしてしまっている。

しかし、でも世の中や家族や夫婦や友人というものが各個人の間に「絶対的な断絶」があるにもかかわらず成り立っているのは(パスカルじゃないけど)そこに奇跡があるからじゃないのかな。
「奇跡」なんていうといかにも安っぽく聞こえるが、問題なのは「なぜ奇跡なのか」ということじゃなくて「そこに奇跡がある尊さ」ということなんじゃないのかな。

このへんについて詳しく聞きたい人は中公文庫ででもパスカルの「パンセ」を買って読むことをお勧めする。
まだその頃は神様のいた時代の話だけど、ちゃんと読むとかなり感動しますよ。ほんと。