トップ 一覧 検索 ヘルプ RSS ログイン

毒入り-2000年4月26日の変更点

  • 追加された行はこのように表示されます。
  • 削除された行はこのように表示されます。
!!!加害者をいたぶる暴言

この文章は私があんまり法律には詳しくなく、かつ新聞やTVでの報道から得た情報を元にした極めていい加減な感情論から来ている事を前提に読んで欲しい。
できたら実現して欲しいとは思うが、まあ無理でしょう。

最近、少年による残酷な事件が増えているような気がする。
「19歳の少年がどうのこうの」とか、「中学生が殺人をどうのこうの」とか。一昔流行った「学級崩壊」などの現象も言ってみれば「態度による暴力」であり、教師や一部の生徒にとっては残酷な事件であると思う。

でも世の中には「少年法」なるものが存在するようである。
少年法とは未青年にとっての「免罪符」のようなもののようで、人を殺そうがものを盗もうが「青少年の未来と更正の為」というお題目で死刑や無期懲役は行なわないというものらしい。
「例え少年が犯罪を犯したとしてもそれによってその少年の未来が絶たれてはならない」のだそうだ。きっとどこかのPTAのおばさんが作った法律なのだろう。

殺人を犯してしまう少年なんていうのはよほど甘やかされて育ったんだね。
だって殺してしまうって事は「自分は殺す事は出来るけど殺される事なんてあるわけない」とでも思ってるんじゃないかな。
「自分だって殺されうかもしれない」という感情と言うか認識があれば殺人なんてそうそう出来るもんじゃないと思うけどね。
やっぱり、どこかで「俺だけは特別なんだ」っておかしな認識が出来てしまっているんじゃないかな?
ましてや「俺は何やっても少年法が守ってくれる」なんていう事が少しでも頭の中にあったなら即刻死刑にしても良いと思うけどね。育てた親御さんには悪いかもしれないが、「少年の未来」と同じように、同じ社会に生きる我々の「未来」も大事なので。
子供のうちからそんなに腐れた根性している人間は今のうちに除いておかなければこっちが危ない。

だいたい、ありふれているかもしれないが、「被害者の人権」はどうなるのだ?
被害者と言うのは加害者の刑が確定する以前に既に被害者なのである。
詐欺事件なら別だろうが、傷害とか強盗だったら事件が発覚した時点で「被害者」というものは既に確定している。
「被害者の被害」から既に事件は始まっているのだ。最初に報道されるのも被害者。マスコミにマイク付きつけられるもの被害者。殺されてしまったらインターホン越しにマイク付きつけられるのも被害者(の家族)。
で、犯人は捕まってもせいぜい卒業アルバムの集合写真のアップが映されるだけで、護送途中はジャンパーをかぶっている。(あのジャンパーはどこから持ってくるのだろうか?ひょっとして警察の備品なんだろうか?)手錠もモザイクがかかっている。

話はそれるが、あの「手錠にモザイクをかける」っていうのは一体何なんだ?
TVに映されたらまずいような「重要国家機密・特殊脱走防止手錠」なわけじゃないだろ?

まさか「手錠かけられている哀れな姿をTVで流すのは犯人の人権を侵害する」とか考えているわけではないよな?埼玉の保険金詐欺の犯人なんて、手錠にモザイクかけられるのを逆手にとってカメラの前で誇らしげに手を挙げて手錠見せびらかしてやんの!いいかげんにしろっていうの!

で、私に限らず多くの人が「加害者の人権は守られているのに、被害者の人権は守られていない」と言っている。
もっともだと思う。
加害者の名誉なんて、死刑にでもならない限りこれからの償いでどうにかなるのではないのか?大体、罪を犯してしまったからにはそれなりの十字架を背負ってもらわなきゃね。やっぱり。

でも、「加害者の人権」を主張する人間は「冤罪の可能性がある」なんて寝ぼけた事を言っているが、そんな事は被害者達にとって知った事ではないのだ。
だって「冤罪」があっても「冤・被害」はありえないのだから。
それは警察の捜査がどうであろうと、世論がどうであろうが、「俺は被害者だ!」って言うしかないじゃん。結局被害を被ったのは警察でもマスコミでもない「自分」なんだから。

これは個人的な見解なのだが、「刑罰」というのは「合法的な仇討ち」であるべきだと思うんだよ。
「やられたらやり返す」っていうのはもっともわかり易い正義なんじゃないのかな?
「仇討ちが繰り返されていると、双方の恨みがいつまでたっても消えないじゃないか」という人がいるかもしれないが、それならそうならないように合法化してやれば良いだろうし、それこそ「世間の目」たるマスコミがその辺を公にさらしてあげて、やりすぎた仇討ちは世間からやっつけられるようにすれば良いんじゃないの?

さらに、「仇討ち」が身近にあることによって子供や歪んだ大人に大事な事を再認識させてやる事が出来るんじゃない?
「人の痛み」というか、「因果応報」というか、「自分がされたくない事は人にするな」っていう忘れられかけた原則を思い出すんじゃないかな?
「仇討ち」がわけのわからない法律や刑法や解釈で置きかえられた現在では「法律に触れなければ悪い事じゃない」「法律で守られているから自分は大丈夫」というおかしな事態になっちゃうんじゃない?
法律なんて「痛み」はないわけだし、所詮「他人事」の為に作られているんだから。

また、同じような効果のあるものに「さらし刑」がある。
江戸時代では「市中引き回し」とか、「刺青」とか、「街頭鞭打ち」とかあったらしいが、これこそ「悪い事をしたらこんなに恥ずかしい思いをしなくてはならないのか」って普段からわかるんじゃないかな?
公開された刑罰なら、親も子供に「ほら、悪い事をするとあんな風にお仕置きされてしまいますよ!」って教育できるわけじゃない?
悪いことをしたんだからせめて後世に「悪の末路」を「教育」する役にぐらい立ってもらわないとね。
だから刑務所なんて塀で囲わないで全部鉄格子張りか強化ガラス製にでもして、外から丸見えにすれば良いんじゃないの?教育効果は抜群だと思うよ。

そもそも「犯罪者の人権」なんてものを声高らかに言う人間に聞きたい。
社会っていうのは一体誰の為にあるのか?まっとうに社会の枠の中で生きている人間の為にあるんじゃないのか?
犯罪って言うのは「反社会」的な行為なわけであるから、そんなヤツを「社会」で守ってやる必要なんてない。
全ての人権を剥奪されて街頭でさらし首にされても文句は言えない。そうしないと「正しい社会」を維持し、未来にわたって子孫達に伝える事が出来ないじゃないか。

それは「差別」につながる!と言う人もいるかもしれないが、それは問題が違う。
「安全」と「平等」はイコールではない。大体、「平等」という事こそ、みんなが同じ枠の中にいる事が前提なのだから、「安全」がないところに「平等」なんてありえないはずだ。

話が少々わかりづらくなってしまったが、まとめるとこういう事だ。
「犯罪者にはきっちり恥をかかせろ!恥をかきたくないなら犯罪なんてするな!」