2006年08月の駄文
2006年08月29日……「靖国問題」の思い出し書き
8月15日にこの日記に上げた文章はサーバのトラブルで消失してしまいました(T_T)
我ながら久々に良く書けた文章だったと思っていたのに残念です。
で、その後その文章を頭の中の記憶を元にもう一度書いてみようと思ったのですが、何だかうまく書けません。
確かその文章の中で私は「靖国問題」と言われる問題を4つの論点から分析しており、結局は「内政干渉なんじゃないの?」という方向でまとめていたのだと思います。
- 政教分離の原則
- 「追悼」「慰霊」というものが宗教と不可分であるという事
- 信教の自由
- 「A級戦犯」と言われるもの
とどのつまり、「靖国問題」とは表面上は外交問題でありながら、実質的には心理的な思い込みと言うか言いがかりに近い部分があり、正直なはなし「国家間の問題として論ずるには値しない問題である」という事だったと思います。
「総理の靖国参拝は政教分離の原則に反している!」という人がいますが、そもそも「戦死者を追悼する」という事を行っている時点で「宗教」なのです。
だって、本来的・純粋的な政治は即物的な次元の国家運営、国際運営であり、「死んじゃった人」なんて追悼しようが何しようが、そんな事は直接的には1円も国家の利益にならない行為なのです。
だから「国家としての追悼」というのがそもそも政教分離の原則から言えばはみ出た行為なのです。
しかし、人間は衣食住だけあれば良いかと言えばそんな事は無い。
先達や故人に思いを馳せ、その功労や苦労を慰撫し、過去の過ちを新たにしないという誓いを新たにする事は「政府だから」「日本人だから」「靖国だから」とか言う事ではなく、ある意味全人類に共通した心情だと思うのです。
少なくとも「日本人」として育ってきた私にはそう思えるのです。
だから、私は国家元首、首相が過去の戦死者についてその終戦記念日に追悼の参拝をすることは何ら問題は無い、それどころか誇らしい行為だと思います。
また「信教の自由」という点についてですが、一部の人たちは「日本の宗教の神道形式で祈られて欲しくない」とか「神道は戦前の日本の支配的な国家宗教だから使って欲しくない」と言っています。
でも、それだったら別にそういう人たちは「自分たちの信ずる、もっともふさわしいと思う方法、作法で」祈れば良いだけの話です。
「信教の自由」とは他の宗教を非難する自由ではなく、自分の中に信ずるものの自由ということではないでしょうか?
神道がふさわしくないというならカトリックでもプロテスタントでもイスラム教でもヒンズー教でも仏教なんでも良い、「戦争の犠牲者を悼み、平和を祈念する」ということを行わない宗教があるはずがありません。
それぞれの作法、様式で祈ろうが結局求める事は同じはずですから。
「他の宗教の人が自分の宗教以外の祈りを捧げるのはけしからん」というのは宗教の本質を見誤った考えだと思います。
そもそも「国家が執り行う宗教行事」というのは、それらの色々な宗教の「最大公約数的」なものだと思います。
まあ、国で「国教」を定めている国もありますが、日本には「国教」がありませんから、結局は「参拝する場所の様式に合わせる」というのが良いのではないでしょうか。
なので、「二礼二拍一礼」をあえて行わず、「神前にて一礼」であえて配慮したのはまあしょうがない事としても、ちょっとそれはそれで問題なような気がします。
また、「無宗教の追悼施設を国で新たに作ろう」という意見もありますが、先ほど論じたとおりに「追悼という行為自体が宗教に根ざした行為である」為、「無宗教の追悼」という事自体が言葉の遊びでありナンセンスです。
思い出せるのはそんな所ですかね。
最近、「ネット右翼」なんて言葉が飛び交っていますが、私はあえて「自分はネット右翼ではない」と思っています。
殊更に日本を持ち上げたりバンザイしたりする気はありません。
思考停止の末のバンザイでは戦前の日本や現在の韓国と変わりません。
結局はどちらの言い分にも疑問を持ち、自分の頭で判断していくしかないと思うのです。
ネット右翼な人たちは色々な「ソース」を持ち出して日本戦後教育の自虐史観を正そうとしていますが、それもいささかヒステリックさを感じますし、それに反論する「サヨク」「アジア重視論者」な人々はもっと感情的で、正直両方とも「益は無いなぁ」と思えたりします。
結局、歴史もある意味「宗教」と同じであり、「同じものを違う言い方で自分の都合の良いように罵り合うもの」なのでしょうか?
感情が絡んでいるだけに第三者に間に入ってもらって客観的に…とできない所が悲劇です。