!!!「食」的グローバリスト論 私は厳しく躾られたせいか、恐ろしいほど食べ物に関して好き嫌いがない。 本当にない。 にんじん、ピーマン、セロリは言うに及ばず、肉、魚、野菜、珍味、ゲテモノ、おおよそ今まで「これは絶対食えない!」という物に出会った事がない。 正直言えば子供の頃に「缶詰の白いフニャフニャしたアスパラは食えない」と思っていたが、大きくなってから食べてみれば何の事はない。余裕である。 また、体質がとても母親似であるため、母親が食べてジンマシンを出し生死をさまよったサバも生まれてから20年以上食べたことがなかったが、あまりのおいしそうな見た目に負けて命をかけて食べてみたら非常においしかった。もちろん私は何ともない。 これで今の所私の出会った食材で食べられないものはなくなってしまった。 最も、唐辛子系の「激辛」は苦手だが、味付けの好みであって、食べられないわけではない。水かスープがあれば食べることはできる。 それに本当においしいものであれば辛いのもさほど気にならない事がある。 モツ鍋やキムチ雑炊が良い例である。 自分でも思うのだが、とりあえずこの日本の中で「食材」となっているもので私が食べられないものはないのであろう。 もし「これ食ってみろ!」というものがあったら遠慮なく掲示板に書き込むかメールで注文つけて欲しい。 ただし、私は奇人変人大賞に出たいわけではないので、「土を食え」とか「ゴキブリホイホイのゴキブリを食え」というのは不可である。 また、信条的な問題で、太平洋で難破・漂流という事態にでもならない限り人肉も食べないつもりなので悪しからず。 ゆえに、私は好き嫌いをする人間の心理が良くわからない。本当である。 まあ、20ン年も人間やってるので、人には「好き嫌い」とか「食べず嫌い」というものが存在することを「認識」はしているが、写真に写っているUFOを信じるか信じないかという領域である。 頭で認識できても心でわかる事はできないであろう。 天才ゆえの贅沢な悩みである。(爆) 多分、味覚というものは動物が食べ物を「食べれるか食べれないか」判断する為の情報を収集するために備わってる機能なのだろう。 例えば、「これは毒みたいな味がするから食べてはいけないらしい」とか、「これは腐った味がするから食べないほうが良いだろう」とか、一種の身を守るための武器なのだと思う。 が、それはあくまでも動物の話であって、人間としてはもう少し進んだ解釈に使っているのではないだろうか。 「美食」「美味」といった概念が存在するように、「この食べ物はどれだけ自分を幸福にするだろうか」という判断材料としての意味が人間の味覚にはあるのかもしれない。 つまり「この食べ物は楽しいか楽しくないか」という一種社会的な習俗が混入した「文化」と「本能」の接点なのではないだろうか。 今、世界では「グローバル化」とか「ボーダレス」とか言われているが、それは単に情報的な事だけではないはずだ。 流通がもっと発達すれば地球の裏で今朝取れた食材が今晩の食卓に乗るかもしれない。そうまでは行かなくても、名前も知らない深海魚や、そこら辺の雑草みたいなえたいの知れない植物のように「新しい」食材が今後どんどん増えていくであろう。 これは世界を知る為に極めて重要な事である。 日本語には「同じ釜の飯を食う仲間」という表現があるが、結局食欲は人間の最も根本的な本能の1つである。 「本能」である「食」に異なる価値観を持っている人間は決して相容れないと思う。 同じ物を食べれるようになってこそ、他の文化を理解する事ができるのではないだろうか。 「嫌いな食べ物」と言っても、アレルギーで食べられないとか、宗教上食べることができないものを除いては「どこかで誰かが食べているもの」なのだ。 自分が食べているものを人に「マズイ」と言われるのは気持ちの良い事じゃないだろう。 自分が「食べられない」と思っているものでも味付けや料理方法を変えてみれば結構食べられるものである。口に入れられるようになれば後は量を増やして「ごまかし」を減らしていくはずだ。 「個性を大切にする時代」だとか言われているが、それは「人は人、俺は俺」と言っても良いというわけではない!! 他人を理解して、かつ自分を主張できる人間である事ではないのか? 自分を主張する為にはまず相手の主張を聞いて理解できる事である。 それにはまず相手の食べている食べ物を食べることだ。 何でも食べられればどんな人が来ても恐れるに足りない。 さああなたも好き嫌いを克服して新のグローバリストになろう!!