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毒入り-2000年6月5日

嘘の妙薬・真(まこと)の毒薬


”さて、ここに「嘘」があるとします。
この「嘘」の「真(まこと)」はどこにあるでしょう?”

この問いに「嘘の裏ッ側じゃない?」と答える人が圧倒的に多いと思うが、果たしてそれは本当だろうか?
確かに「嘘と真は表裏一体」という概念が人間の頭には刷り込まれてしまっているが、それは安易と言うか、平面的と言うか、物事を単純に捉え過ぎである。

これが例えばトランプのようなものについて「表」を「真」、「裏」を「嘘」とすれば成り立つ概念なのかもしれないのだが、世の中で起こり得ることは全て「立体」なのである。
よく「○○に関するインパクト」とかいう言われ方をするが、ある「行為」とか「結果」という物はその発信源の意図する方向とは別の方向にも影響を与える事がままあるからである。
というより、物事を完全に1つの方向を持つように起こすにはただ事を起こすよりも何百倍もの慎重さと計画性が要求されるはずである。全ての行為は常に予想外のインパクトを生ずるものだという事を「常識」として考えに入れておかねばならない。

話がそれたがでは「嘘」に対する「真」はどこにあるのか?
それを探るには「嘘」という物の成立条件を考えなくてはならない。

[嘘が成立する条件]

  • 「真」と異なること
  • 「嘘」をつかれる対象があること
  • 「嘘」と「真」を判別する方法があること

簡単な事である。「嘘」という物は「真」の湾曲なのだから「真」が存在しないと「嘘」も存在できないのである。
また「嘘」は「真」の湾曲されたものであるから、明らかに両者に差異がなくてはならない。もし「嘘」と「真」に差異が認められなくては「嘘」とは認識されないからだ。

ここで難しいのは「嘘と真を判別する方法」である。
なぜ難しいかと言えば「真を定義する事が難しいから」である。
「真」が事実を指す場合は物理的な比較対象があるかもしれないが、「真」が精神的なものであった場合、精神的な「真」を物理的な方法によって物質化して比較しなくてはならない。
しかし、精神的なものは本来自分以外誰にもわからないからこそ精神的なものなのである。
そこに「嘘」が存在する為の客観的矛盾が生ずる。

だが、「嘘」という物は厳然と存在する。
その事から逆をたどれば「真」も確かに存在する。鶏と卵のような話だが、これは事実である。
その仕組みははっきり言って天下無敵の凡人なる私にはこれ以上推し量ることはできないが、この事から「嘘」には恐ろしくはっきりとした特徴がある。
つまり、本来精神的なはずの「真」を「嘘」という物理的手段を通じて自分以外の人間に伝える事ができるのである。
これは「嘘」に「嘘をつかれる対象」が必要なことから避けられない性質である。

平たく言ってしまえば「真は直接100%伝える事はできないが、嘘ならとりあえず真の存在は認知させる事ができる」のである。

よくよく「真」と「嘘」を、「表」と「裏」と同一視している人がいるが、それは私に言わせればナンセンスである。
「表」というのは「公に見えているもの」のことで、「裏」というのは「一部の人には見えているが、公には隠されているもの」である。どちらも「見える」という物理的な効果が介在してはじめて存在し得るものであって、そこに精神的な要素は、少なくとも本来の状態では、存在しない。

つまり「裏」を「真」、「表」を「嘘」などと考える事は物事の精神的な側面と物質的な側面を混同した「幼稚な」認識なのである。

また、「「裏」というものは「嘘」だから、私は本当の事しか言わない」という人間がいたら、その人は他人と「真」を分かつ事を自分自身で許せない臆病者である。

しばしば「嘘」とか「裏」というものが悪役視されるのは人間を「カード化」して読みやすくするための誰かの策略としか思えない。また、自分の「嘘」を相手に鵜呑みにさせる為の下地作りとしか思えない。

やっぱり「嘘」にもノウハウがある。
より「効果的な嘘」をつくためにはその「嘘」によってどのような「真」が人々から導き出されるかを経験によって謀らなくてはならない。
だからアホな世の中に振りまわされたり、余計な殻に閉じこもらないように「嘘」をついて他人と精神的な面を共有する訓練をしておくべきである。

最強の「嘘吐き」は最高の「具現者」なのである。


ただ、同じ「嘘」でも「善意な嘘」と「悪意な嘘」が存在する。
相変わらず論旨がどこかに行ってしまって読みづらい文章になってしまった。
これについてはまた今度……。(笑)

最終更新日時:最終更新時間:2005年08月02日 11時38分53秒
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